指標と幸せに向かう正義
9月議会で政策の科学化にふれました。科学化は数値化、指標化です。
しかし数値は一つのマークにすぎません。
まず、指標の代表格、GNPについて、「正義が存在する社会は、必ずしも国内総生産が高い国ではない。
GNPには子供の健康、教育の質、遊びの喜びの向上は関係しない。
われわれの機知も有機も、知恵も学識も、思いやりも国への献身も、評価されない。
要するに、GNPが評価するのは、生きがいのある人生をつくるもの以外のすべてだ」(アエラ、'10.8.16「『正義』で人気のマイケル・サンデル教授が語る」より、一部省略)
次に、「国の力を、『生産力』ではなく、国民一人一人の『幸福感』で計ろうというというGNH(国民総幸福度)の考え方に、今世界の注目が集まっている。
老子の『小国寡民』似も相通ずるところがある。」('10.7.6 西日本新聞、9面、「風車 幸福の本質」から、一部省略)
GNH、私の通信第12号でも紹介したことがあります。
しかし、どの地域も同じGNHで数値を比較することは避けるべきです。
数値化は比較するためですが、よそとの比較ではなく、自分の過去との比較のために限って使うべきだと思います。
他との比較は、また、数字に縛られ、「幸福感」とは違った働きを数字自体に強要されることになると思います。
幸福感は地域地域で異なる。
従って、GNHは、地域地域で取り上げる根拠が異なるべきです。
それが、当たり前で正しいから、よそと比較するために使うな! そう思います。
ここで、内山節さんのエッセイから、
「国の力を、「生きがいも幸せと同じように、その人とともにある関係の中で生まれてくるものなのである。」
「数字という指標だけで価値があらわされるような世界は、人間を幸せにはしないのである。」
「絶えず、人間の幸せとは何か、働きがいとは何かといった、決して共通化も数値化もできない問題を、考え続けなければいけないと考えているのである。
そうでなければ、効率のよい不幸な社会が生まれるだろう。」(内山節'10.6.28西日本新聞)
効率のよい不幸な社会、とても気になる言葉です。
そして、最後は、マイケル・サンデル教授の言葉、
「日本でも、米国でも、欧州でも政治家や政党に対する欲求不満が募っているのは、私たちが真に大切だと思っている社会的な正義について話し合っていないからだ」(アエラ、'10.8.16「『正義』で人気のマイケル・サンデル教授が語る」)
いま求めなければならないのは、「その人とともにある関係の中で生まれてくる」幸せであり、生き甲斐です。
そして「正義」はその「関係づくりの中で」必要となる世間で通用するルールだと思います。