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ナイロビのスラム
09/06/14
ゲイト・コミュニティ(ナイロビ)
09/06/06
ナイロビの家
2010年06月
2009年06月
・写真をクリックすると拡大表示します。
ナイロビのスラム
6月11日の朝ブロより;
西日本新聞、28面、「いのちを救うということ ケニアから あなたはお元気ですか」;
→キベラというナイロビ最大のスラムのことが書いてあります。私も現地の都市計画の講師と一緒に行ったことがあります。ナイロビの中心街、そこは、遠方から見ると高層、モダン、大都会のビルがいくつもある、ああ、ナイロビはちゃんとした都市(まち)やン、と思う表情です。けど、細部を見ると荒い、しゃばい、抜けている。表面だけの厚化粧、嘘くさい、感じがしてきます。(写真参照)
比べてキベラ、ビルなど全くなし。掘っ建て小屋のような家、建物が延々と続きます。しかし、人の多さ、物を売る活気、これは比べようもない都市(まち)の飾らぬ歓喜。人が続々と集まり、生活のための物の購入、あった人との歓談など、都市の原点を感じるところでした。(この写真はValley slumです。)
最後は、空き地で体験した熱気を少しさまそうとしたら、「ハー、アー、ユー?」の声、見ると子ども達。また、「ハー、アー、ユー?」、また、「ハー、アー、ユー?」。後はこだまのように子ども達が、呪文のように、「ハー、アー、ユー?」を唱えながら集まってきました。思わず一緒に写真をカシャッ。
この記事の最後も、「小さな子どもたちが私たちに寄ってきて『ハウ、アー、ユー? ハウ、アー、ユー?』と声をそろえた。あなたはお元気ですか。その答を考え続けている。」でした。
懐かしい、サバンナのナイロビの光景です。議会での切り出し言葉、「お元気サンです」の原点はここにあります。
玉井てるひろ
2010/06/11 15:08
ゲイト・コミュニティ(ナイロビ)
少し、住んでいた所の補足記事です。
プールがあったことは述べましたが、写真の通り、プールの向こう側には塀が見えます。
正面の写真、丁度車が通りかかったものしかなかったので分かりにくいかもしれませんが、高い門がある敷地でした。そこに、門番(アスカリ)がいて、誰か来ると顔を見て門を開けるのです。
私のコンドミニアム(日本のマンション。コンドと略されます)に関しては他にも書いていますが、ここでは、ゴミ捨て場がなかったことを伝えます。初めてゴミを出そうとお隣さんにどうするかを聞いた所、アスカリに渡せばいい。だから、ドアの前に置いておけばいいとのこと。アスカリに渡すのはいいけど、そのゴミを置いて置く所はと、見るとどこにもない。どうしている?
謎の答えは、アスカリがゴミを選り分けて、再利用先に裁いているということでした。
Valleyのスラムのことでも書きますが、私たちが出すゴミはかなりのものが再利用可能とのこと。割れた電球も売られてました。
私が教えていた都市経済学の講義で学生が、ケニアには2つの経済があると言いました。ネイティブと外国から来た人と。そんなことはない、市場を通じて一つになる、と、言ってしまいましたが、確かに、現実には2つあると見ることもできる。
私たち、先進国を背景に持つ住民は、このようなゲイト・コミュニティに住んで、外界には塀をめぐらし、別世界をつくり生活する。明らかな差別の経済のラインがそこにはあります。
同じ、ゲイト・コミュニティはアメリカにも存在していました。共通点が社会にはあるのです。日本には別荘地ぐらいで、ほとんどゲートコミュニティはありません。どちらがいい国かは明らかです。
玉井てるひろ
2009/06/14 21:24
ナイロビの家
本日、2009年6月6日から、都市(まち)の記憶を書いていきます。まずは一番とりやすい所にスライドがあったケニアの首都ナイロビから。
ナイロビで住んだ家は、私が住んだ家で贅沢な家の一つでした。
アーコン・コート(どんぐり庭邸宅?)と呼ばれる、門番(アスカリ)付き、メゾネット(アメリカでは、デュープレックス)という、1つのユニットが内部階段があり、2階建てになっているという豪華なもの。
私のユニットはグランドフロア(地上階)と、2階。庭にもすぐ出られるし、2階のベランダから、邪魔されずに庭の景色を愉しむことができる。
庭にはプールがあり、たまにインド人が泳ぐし、私も本当にたまに、水に浸かる。門番だけではなく、ガーデナー(庭師)も毎日手入れしている。
部屋には、呼び鈴があり、押すとメイド部屋に繋がり、別室からメイドが来るというものでした。もちろんメイドは雇っていなくて、通いのサーバント兼コック(だからもちろん男性。オバマのおばあちゃんと同じルオ族)を雇っていました。彼が一番ケニアでお世話になり、深く長くつき合ったケニア人でした。彼の名前はジョナ、敬虔なクリスチャンのようで、聖書をいつも持っていました。
最初は、お米を炊いてもらったら塩を入れて炊いたり。塩を入れると、高度が1メートル以上ナイロビはあるので、きちんと炊けるという生活の知恵のようですが、辛いご飯になります。また、圧力釜を手に入れていたので、それで炊いてもらうことにしました。
彼に学んだのは、トマトは煮て食べること、カレー味を旨く付けてくれることです。現地のホテルでコックとして働いたことがあるとのことでしたが、味はやはり馴染むのに時間がかかりました。主食であるウガリという、トウモロコシの粉を饅頭のように水で固めて火を通して食べるものは、彼の味になじんでしまいました。いろんなところで食べたのですが、近くの珍しくこぎれいなナマチュマ(ケニアの山羊の焼き肉屋)レストランのウガリ以外、彼の寄り美味しいウガリは食べたことはありません。最後の方は早く帰って、彼がつくってくれるウガリができあがるのを待ち遠しく待っていたことを思い出します。
一度、大好きなポロのスウェットシャツを漂白剤で、真っ赤にしてしまったことがありました。サー、アイ・アム・ソーリーと言われたものの、少し叱ったことがありました。でも、叱っても知らなかったことで、仕方なかった。大きな声を出したかな、ゴメン。
夏休みに遊びに来てくれた連れと息子にも馴染んでくれました。小学校2年だった息子が、ジョナと一緒に、丁寧にベットメーキングをいているのを見て、ほほえんでしまいました。彼はいつも丁寧に仕事をしてくれれました。すべて任せっきり。彼が私にした一つだけの要求は、毎日一杯だけココア(彼はココといってました)飲ませてくれと言うことでした。もちろん、イイよ、です。嬉しそうに、ゆっくりと、ココアを飲んでいる彼を何度か見たことがあります。本当に信頼できるやつでした。ありがとう。
彼にまつわる思い出は、帰国後もありました。住所を教えていたら、手紙が来て、お金を送ってくれ。その後、仕事がなくて困っているとのことでした。しかし、地行を始めたばかりで余裕のなかった私は、結局無視してしまいました。その時は、何度も変えたドライバーのことや、ケニアでの一般の人に関して思っていた、甘やかすととんだことになるということを、彼にも当てはめて、送らない口実にしたことを覚えています。貧しいのはつらい。「貧すれば鈍する。」恩師、上田先生がアフリカに行く前に、つぶやいた言葉です。確かにそうです。私も、ジョナも、ドライバーも。ある程度の豊かさが人間にそれなりの品格を与えてくれます。それを失うことは大変な社会の損失です。そして、社会としてそれを失うと、それを取り返すことはとっても大変。ほとんど不可能に数世紀ぐらいの期間成るのではないでしょうか? ケニアが私に教えてくれた大きな教訓です。
ドライバーは何人変えたかな、4人はすぐ思い出します。どのドライバーも、それなりにイイ給料だからでしょうか? ほめると直ぐ、賃上げを要求するし、直ぐ事故を起こす。最後のドライバーは、帰国直前の車を売ろうとする直前に、壁に車をぶっつけ凹ませてしまいました。
しかし、心配も何のその、買った値段よりも高く車は売れました。もちろん、こちらで修理もしましたが。質のいい中古車がない国は、日本人の乗っている日本車は使っても使っても高く売れたようです。
2階建て、3ベットルーム、一階はダイニングとリビングとキッチン。一階で仕事、読書。二階は寝るだけ。人が止まったのは息子が小学校2年の夏休みにつれと一緒に来て、ほぼ1ヶ月泊まった時だけでした。一つの部屋は全く使わなかった。ほとんど内部階段当たりをうろついている壁チョロと2人だけの生活でした。もったいない。
場所は大統領官邸の近くで、ナイロビ大学の直ぐ隣。大学へはジョッギングに、プールに水泳に行きました。また、時にサッカーの試合があっているグランドでは、どこからともなく観客が集まり、子どもたちが紙に包んだピーナッツを売りに来ます。少ない娯楽の一つが大学のサッカーの試合でした。
私のドライバーの一人はサッカーのチームに属して、センターフォワードで試合に出ていると自慢しました。免許取り立てで、ドライバーになり。運転が怖い怖い。この人も1ヶ月ほど過ぎて、ほめた途端追突事故。なんと、ほめたらダメの国のようでした。
玉井てるひろ
2009/06/06 23:49
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